アパレルブランドの依頼を受け、ニット製品のデザインを担当する五十嵐千枝子さん。一言に“デザイン”といってもニットの場合、デザイナーが関わっていく範疇は広いと言います。
「一般的なテキスタイルとは違い、ニットはどのような厚みにするか、どのような手触りにするかといった素材づくりからはじめます。そしてデザインを考え、自分で編んでみてカタチをつくってみせて、生産工場に依頼。仕上がりをチェックするまでを担当します」
現在は、フリーランスの立場で、デザインオフィスに所属して、契約ブランドのニット製品をプロデュース。依頼する企業は、五十嵐さんのデザインのみならず、長い経験に裏打ちされた確かな知見をも認めているようです。
「人からは、よく私がつくったものは“五十嵐らしいね”といわれるのですが、自分ではよくわかりません。違いがあるとしたら、それは知識のバックボーンだと思うのですよね。言うなればデザインそのものは誰でもできるとは思うのですが、素材、編みの知識、その機械や工場の特色を正しく掌握して、お客様の要望がどこまで実現できるのかどうかは、やはり経験によるものが大きいと思います」
子どものころから編み物が大好きだったという五十嵐さん。マフラーやセーターを編みあげては、友人にプレゼントしていたといいます。
「アパレル会社に入社してみたものの、当然、企業デザインのニットと編みものは全然違う。あまり手を動かす機会がなかったのですね。それでも現場でものづくりに携わることはとても楽しかった。ところが年次があがっていって、マネジメントをする立場になってくると、“このままだとモノづくりをすることがなくなるなぁ”と思えてきて。やっぱり編み物がしたい。自分が編むということに、もう少しフォーカスする時間が欲しいと思い始めたのです」
このままでは、本来好きだったことが好きでなくなってしまう。そんな危惧を覚えた五十嵐さんは、再び編みものと向き合い始めたと言います。
「サンプルを編んでいると、どうしても毛糸や小さなパーツがあまってしまって、それを捨てていたんですね。イタリア製のものが多く中には高級なモノもあって勿体ないんで、それらを繋いで編み上げていたんです」
服地と違って、ニットは何度でもやり直しが利きます。毛糸を繋げば何メートルにもなって編めてしまうし、編んでいる途中でも戻ることができる。それが作り手にとっても魅力でもあるし、それが高じて、洋服の再利用に興味を持ったといいます。
「あるエコイベントで出会った方のお店で、手づくりの作品の販売を始めるようになったのです。それで手応えを感じて、20年続けていたサラリーマン生活を捨てて、42歳でフリーの道を選びました」
毎年、新しいファッション、新しい洋服が世の中に登場してきますが、それがたった一年で着られなくなって、処分してしまう風潮があるのは確か。ところが捨てないでとっておいて、一年あけて着てみたら、“なんか意外といいな”って思えるような服。オーソドックスなニットであればそれが可能だし、長く愛されるスタンダードを作りたいと五十嵐さんは言います。
「さりげないほうが良いんです。しょせん洋服ですから、人より目立ってはいけないんです。“この服の、このデザインはどうよ!”って見せつけるより、会った人から“そこ、オシャレだね”っていわれてはじめて気づくくらいの方が好きなんです」
デザイナーとして活躍する傍ら、ワークショップを開催したり、一年に一回、自らが主催する“残り物には福がある”という販売会を実施。同業のデザイナーや糸を扱う会社など、業界関係者から寄せられた質の良い残りものを編み上げた作品を販売していると言います。
「カシミアのように質の良い毛糸でも、私が使ってあげなければ、ごみになって燃やされる。こんなに良い糸なのに、綺麗な糸なのにって。こうした余り物やはぎれだって繋がっていけば新たな価値を生むのです」
売り上げの一部を、そのときに気になる先へと寄付。それ以外にもチャリティ用として熊本の地震の時に作品を販売したといいます。
「少しずつ、自分ができることをやっているだけ。この年齢になって、自分がやってきたことを誰かに残したい、人の役に立っていけるかな?って思うようになりました。どこかで自分の存在意義みたいなものを確認したいのかもしれません」
香港の街の活気を実感した
そんな五十嵐さんが忘れられない旅先としてあげるのが香港。アパレル会社に勤務していた時代に、何度も出張に出かけたのだといいます。
「当時は、中国ではなく香港がメインの生産拠点と認識され、その下請けが中国という時代。香港が返還される5年ほど前でしたし、中国が“世界の工場”となる少し前といった状況でした」
当時、22、3歳の社会人一年生だった五十嵐さんの目には、香港の街は非常に活気あるように映ったと言います。
「とにかく元気でしたね、香港は。人々も街も。夜景の煌めきが違う。日本企業のネオンも多かったですし、マンダリン、ペニンシュラなど名だたるホテルも立ち並んでいました。偉い人と出張に行くと、そういったホテルのバーに連れて行ってもらえる。すごく素敵に感じました」
その後も何度か香港を訪れた五十嵐さんですが、返還5年前のその時期にもっとも活気を感じられたと言います。
「アジアの街って、夜になるとそのエネルギーの量がわかるような気がします。人々の喧噪、華々しいネオンサイン、そんなものが街の活気のバロメーターになっているのでしょうか」
当時の感覚としては、単純にコストだけを考えて中国にものづくりを依頼していたわけではありません。日本に手動の機械がなくなってしまい、中国ではそれが回っている、そこでしかできないから作ろうという感覚があったといいます。
「安いから作るのではなく、自分たちが作りたいものがあるから中国で作ろうと。ニットが強い会社だったので、こだわりがあったんですね。ところが中国でも手動の機械がなくなってきて、ニット用のミシンが使える人も少なくなってくる。少し前まではできていたことができなくなる…。そんな時代の変化を目の当たりにしてきました」
機械化、自動化が進行していけば、モノに合わせた作り方ではなく、機械の都合に合わせて生産されたモノが世の中に溢れてくるようになる。
「そのうち人間より優秀なロボットがセーターを作るようになるかもしれない。もっといえば、手間がかかるニット製品なんて、この世の中からなくなってしますかもしれない。だから、よけい私は自分の手で編んだものを着ていたいと思うのかもしれません」
アイルランドでニットの源流をみる
ニットデザイナーの五十嵐さんが、今、注目している旅先はアイルランドの西岸に位置するアラン諸島。ケーブル編みのフィッシャーマンセーター“アランセーター”の発祥の地なのだとか。
「“ニットをやっていたら絶対行かなきゃだめよー”って先輩にいわれました(笑)。アランセーターは縄編みの柄が浮き出すように入ったセーターで、島に住む漁師の奥さん方によって生み出され、今でも編み続けられているんです。やっぱり自分の仕事の源流はこの目で見ておきたいと思うのです」
子どもの頃に編みものに魅せられてから、ここまでずっとニットとともに生きてきた五十嵐さん。“自分の好きなことをやって生きていけるのは幸せなこと”と笑顔を浮かべます。
「それでも、フリーランスになると、どうしても毎日、休みなく漫然と仕事をしてしまうと集中力が落ちてしまう。パワーもなくなってしまう。仕事を長く続けるためには、リズムを変える必要がある」
そんな時には旅がしたくなるという五十嵐さん。旅に行くことが決まれば、その前後の仕事を調整して、時間を作ることになるので、そこでリズムが変わる。
「ちょっと離れてみると、“私、やっぱり編み物が好きだわ”って気持ちがわいてくる。面白いものですね」
五十嵐さんにとっての旅とは、好きなものを好きなものとして再認識できる時間なのかもしれません。
五十嵐千枝子さんhttps://www.facebook.com/chieko.igarashi.3http://epililima.blogspot.jp/
インタビュアー:伊藤秋廣(エーアイプロダクション)
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